「溜池備忘録」その7 「大河内城と信長」

2016年3月15日

CSAJ 専務理事 前川 徹

大河内城址

 ついでなので、もう一つ城の話をしよう。
 生家から歩いて20分くらいのところに大河内(おかわち)城址がある。周辺の住民からは「城山」と呼ばれている。駆けまわるには十分な広さがあるので子供の遊び場になってもおかしくないのだが、子供の頃に城山で遊んだ記憶はほとんどない。小中学校の友人たちからも城山で遊んだという話を聞いたことがない。たぶん、城跡のもつ独特の空気のせいで、遊び場にしてはいけないと思っていたのだと思う。
 大河内城は15世紀の始め、南朝の伊勢の国司であった北畠満雅(きたばたけみつまさ)によって築かれたと言われている。松阪駅から7、8キロメートルほど南西にある標高110メートルの丘陵を利用して造られた平山城である。麓の大河内町は海抜60メートルくらいなので、そこからの高さは50メートル程度しかない。しかし、城の東を流れる阪内川と西を流れる矢津川が城の北で合流していて、堀のようになっており、南の尾根との間には崎谷(さきだに)と呼ばれる谷が食い込んでいて、天然の要害になっている。
 城の東側にある搦手の急な坂を登ると「二の丸跡」とよばれる曲輪に出る。その先に「馬場の跡」がある。ここが山の上とは思えないくらい広い。多少の起伏はあるが小学校の校庭が作れるほどの広さがある。
 二の丸跡の西側に少し小高くなった場所があり、そこが「本丸跡」と呼ばれている曲輪である。二の丸跡と本丸跡の間には二の丸跡と同程度の広さの窪地があり、「御納戸跡」と呼ばれている。本丸跡のさらに西に「西の丸跡」と呼ばれる曲輪があり、本丸跡との間は空堀になっていて、橋がかかっている。この空堀の北にあるのが、後で述べる大河内合戦の激戦地「まむし谷」である。

伊勢国司北畠家

 この大河内城を築いた北畠満雅は、伊勢国司であった北畠家の3代目の当主である。後醍醐天皇の建武の新政を支えた北畠親房(ちかふさ)は、満雅の曽祖父にあたる。北畠家は村上源氏中院家の流れを汲む公家であり、親房の三男である北畠顕能(あきよし)が伊勢国司に任じられた後、伊勢に赴任し、伊勢北畠家は公家大名となった。
 伊勢国司の二代目である北畠顕泰(あきやす)の時代に明徳の和約によって南北朝の合一が図られ、北畠家は室町幕府に帰順している。この顕泰の次男が大河内城を築いた北畠満雅である。満雅が北畠家の家督を継いで10年余りたった1414年(応永21年)、明徳の和約に反して皇統が持明院統(北朝系)から大覚寺統(南朝系)に譲られないことを不服として、満雅は幕府に和約を守るよう迫り挙兵し、幕府方との戦を始めた。この時に備えの城として築城されたのが大河内城である。大河内城には満雅の弟である顕雅(あきまさ)が入り、これを契機に顕雅は大河内(おかわち)氏を名乗ることになる。
 北畠家は伊勢国司八代目の北畠具教(きたばたけ とものり)、九代目の北畠具房(きたばたけ ともふさ)まで続くが、後述する大河内合戦の結果、信長の次男である信雄(のぶかつ)を具房の養子に迎えた後、具教は1576年(天正4年)に信雄が放った刺客により暗殺され、具房はその身柄が滝川一益に預けられることになり、戦国大名としての北畠家は滅亡することになった。

大河内城合戦

 織田信長が南伊勢に侵攻を始めたのは1569年(永禄12年)8月である。その頃、北畠家は南伊勢5郡を支配しており、本拠地を一志郡多気の霧山城においていたが、信長の侵攻に備えるため、北畠具教は嫡子の具房とともに大河内城に立てこもった。信長の伊勢攻めの軍勢は総勢7万(8万余、あるいは5万という説もある)、大河内城に籠城した北畠軍は総勢8000人と言われているので、その兵力の差はかなり大きい。
 この大河内城合戦については『信長公記』(太田牛一)の巻2の7にも記述されており、滝川一益、池田恒興、木下秀吉、佐久間信盛、柴田勝家、佐々成政など主だった武将が参加している。ちなみに、前回取り上げた蒲生氏郷もこの大河内城攻めに加わっていた。14歳での初陣だったと言われている。
 信長公記によれば、信長が陣を構えたのは城の東の山とされているが、北東に2キロメートルほど離れた桂瀬山に信長の腰掛石と呼ばれる石が残されており、実際にどこに本陣をおいたのかは定かではない。
 籠城戦は8月28日に始まり、10月3日に和睦が成立し、10月4日には北畠軍は大河内城を明け渡している。信長公記によれば、籠城戦は約50日間続いたことになるが、実際に大規模な戦闘があったのは最初の10日ほどで、その後は兵糧攻め(干し殺し)だったとされている。城下を焼き払い大河内周辺の作物をすべて薙いだ上で、城の四方を鹿垣で囲み、食糧の搬入路を遮断した。この結果、城内では餓死者が発生したため具教は和睦を申し入れたと記録されている。
 しかし、これは勝者側の歴史である。地元では、兵糧攻めの最中に滝川一益が、本丸と西之丸の間に北西から入り込んでいる「まむし谷」と呼ばれている谷から兵3000人を率いて総攻撃をかけたものの、北畠軍に反撃され、その兵のほとんどが死傷したと伝えられており、信長はかなり苦戦を強いられたのではないだろうか。
 その証拠として、織田側の和睦の条件が極めて緩いことが挙げられる。戦国時代、籠城側が降参する場合には城主が切腹することが多いのだが、大河内合戦では具教も具房も切腹していない。和睦の条件は、信長の次男信雄に北畠の家督を譲ることと大河内城を退去することという緩いものであった。これは少し身贔屓かもしれないが、北畠側からみると大河内合戦は引き分けに近い負けだったのではないだろうか。

筆者略歴

前川 徹 (まえがわ とおる)

1955年生まれ、1978年に通産省入省、 機械情報産業局情報政策企画室長、JETRO New York センター 産業用電子機器部長(兼、(社)日本電子工業振興協会ニューヨーク 駐在員)、情報処理振興事業協会(IPA)セキュリティセンター所長 (兼、技術センター所長)、早稲田大学 大学院 国際情報通信研究科 客員教授(専任)、富士通総研 経済研究所 主任研究員などを経て、2007年4月からサイバー大学 IT総合学部教授。2008年7月に社団法人コンピュータソフトウェア協会専務理事に就任。

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