「溜池備忘録」その5 「安土城再建という夢」

2016年1月15日

CSAJ 専務理事 前川 徹

安土城再建を夢見る会

 ことの始まりは3年ほど前、名古屋工業大学時代の友人とフェイスブックでつながったことだった。学科は別だったが、大学時代の最初の2年を過ごした大学寮での友人である。彼は京都の企業に就職したこともあって、大学を卒業してからは年賀状だけの付き合いになっていた。その彼からある日、おそらく私が歴史小説をよく読んでいるのを知ったからだとおもうのだが、「安土城の再建を進めたいと思っているが興味があれば連絡を欲しい」という連絡があった。それからいろいろな経緯があって彼を中心に「安土城再建を夢見る会」が発足し、私もボランティアで理事リストに名前を連ねることになった。
 この「安土城再建を夢見る会」の最初のイベントが昨年12月13日に開催され、会の主要メンバーと一緒に安土城跡を訪ねた。贅沢にも安土城の研究者である名古屋工業大学建築・デザイン工学科教授の麓教授のガイド付きだった。

安土城跡

 安土城は、織田信長によって天正4年から約3年間の歳月をかけて造られた城である。JR西日本の東海道線(この付近では「琵琶湖線」と呼ばれている)の安土駅からみて北北東の方向に見える標高200メートル弱の山に造られている。
 現在この山は水田や集落に取り囲まれているが、築城された当時、山の東西と北は琵琶湖に面していて、南は湿地帯だったと言われている。つまり琵琶湖に突き出した小さな半島に造られた城だったのである。
 安土城跡は1989年(平成元年)から20年間、滋賀県によって発掘調査が行われた。この発掘調査で発見された大手道から本丸跡に登ったのだが、これがすごい。山裾から幅6メートルほどの石段が約180メートル一直線に続いている。この大手道をみるだけで、安土城が普通の城でないことがわかる。
安土城以前の城はもちろん、安土城以降に作られた城でも城内の道は防御を考えて屈曲させて造られている。城中の道は屈曲させ、門をつくり、門の内側に枡形を配置し容易に攻め入れないように設計するのが常識である。安土城の場合も、二の丸の入り口にある黒金門からは多少防御を考えた構造になっているが、この一直線の大手道の石段は、この城が戦うためや守るための城ではなく、権威を示すための城だったということを物語っている。
 180メートルの大手道を上ると道は左に直角に曲がり、ここからジグザクの石段が続く、黒金門跡の向こう側が二の丸である。ここまで一気に登るのはかなりきつい。二の丸跡には、豊臣秀吉が建立した織田信長廟が残されている。また本丸には清涼殿に酷似した本丸御殿があったと言われており、その礎石が残っている。天主台は背丈ほどの石垣に囲まれていて天主を支えた111個の礎石が整然と並んでいる。天主台の石垣に登ると木々の間から琵琶湖が見えた。おそらく築城当時には山頂付近の木々は切り払われていただろうから、もっと眺めはよかったに違いない。

安土城の発掘調査

 安土城は1576年(天正4年)から約3年かけて完成している。信長が本能寺の変で亡くなったのが1582年(天正10年)、城は明智光秀の支配下となり、明智秀満が入城するが、山崎の戦いで光秀が破れると、信長の次男である信雄(のぶかつ)が城に入ったと言われている。この頃に城が焼失したと言われているが、秀満が城を出る時に火をかけたのか、信雄が明智の残党を退治するために火を放ったのかは分からない。失火であったのかもしれない。いずれにしても、焼失後に再建されることはなく、そのまま廃城となった。
 前述のとおり、滋賀県が1989年(平成元年)から20年にわたって安土城の発掘調査を行った。この時に調査対象となったのは、大手道の石段、その両側に配置された羽柴秀吉、前田利家、徳川家康などの館があったと伝えられている敷地、本丸御殿跡、天主台などであり、その面積は史跡として指定されている面積の2割程度だと言われている。残った約8割の調査の予定は立っていない。発掘調査が続けられない理由は、滋賀県の予算の問題であるとも、安土城跡を所有している総見寺が発掘調査を承認しないためだとも言われている。
 平成元年からの発掘でさまざまな発見があったことを考えると、残る部分の発掘調査ができるだけ早く始まることを祈りたい。

安土城再建の夢の行方

 麓先生の話によると、安土城再建はそう簡単ではないらしい。もちろん、再建に必要な資金が集まるかという問題もあるのだが、それ以前に文化庁の許可を得るのが非常に困難だという。
 安土城跡は文化庁によって特別史跡に指定されており、天主等を復元するには、それがどのようなものであったかを証明する必要がある。つまり、復元案が誰かの想像ではなく、過去にそこに存在したものと同じであることを示す必要がある。
 しかし、大阪城や名古屋城の天守は鉄筋コンクリート製で内部にはエレベーターが設置されており、どう考えても過去の復元とは言えない。それを麓先生に尋ねたところ、これらの文化庁による規制が厳しくない時代に建築されたもので、現在なら許されない建築物なのだそうだ。たとえば、現在、名古屋城の本丸御殿の復元が進んでいるが、それは昭和20年の空襲で焼失する前に実測した図面が残っているから可能なのだという。(ちなみに名古屋城の場合、天守の実測図面も残されているので、今の天守を取り壊し、かつての天守を復元するという構想もあるらしい)
 さらに、麓先生の話によれば、戦国時代や江戸時代に造られた城の場合、指図とよばれる設計図に従って建築されているが、現代の設計図のように精緻なものではないので、それに従って完全な復元を行うことは無理があるのだそうだ。
 ただ、平城京の朱雀門のように、考古学的研究の積み重ねによって、例外的に復元を認められた例もないではない。安土城の天守については、何人もの専門家が異なる復元案を提案しているが、中でも最も有力な復元案は、加賀藩の大工棟梁であった池上家に残されていた『天主指図』と言われる図面(昭和44年に国立国会図書館分室で発見)をベースにした内藤案(当時、提案者の内藤昌教授は名古屋工業大学教授)である。かつてセビリア万博に出展された安土城天主復元模型もこの内藤案に従ったものであった。したがって、この内藤案が学会の専門家を含む多くに人たちに支持されるようになれば、安土城天主再建の夢が実現になる可能性はあると考えてよいのではないだろうか。

筆者略歴

前川 徹 (まえがわ とおる)

1955年生まれ、1978年に通産省入省、 機械情報産業局情報政策企画室長、JETRO New York センター 産業用電子機器部長(兼、(社)日本電子工業振興協会ニューヨーク 駐在員)、情報処理振興事業協会(IPA)セキュリティセンター所長 (兼、技術センター所長)、早稲田大学 大学院 国際情報通信研究科 客員教授(専任)、富士通総研 経済研究所 主任研究員などを経て、2007年4月からサイバー大学 IT総合学部教授。2008年7月に社団法人コンピュータソフトウェア協会専務理事に就任。

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